古語辞典をパラパラとめくっていると、「心」がついている単語が非常に多いのに気付いた。いくつぐらいあるのかしらと「旺文社全訳古語辞典」で数えてみたらおよそ160もあって、古来日本人がどれほど心の有りように敏感だったかということが理解できる。
例えば、「心浅し」は「思慮が浅い。また、情が薄い。」の意であるし、「心おそし」は「頭の働きがにぶい。気がきかない。心がこもらずいいかげんである。」「心化粧」は「相手を意識して木をつかうこと。緊張すること。心配り。」など、そのバリエーションは誠に豊かである。
これらの言葉の意味するところの特徴は、自分を中心にしたものではなく、多くが相手を気遣ってどう感じるかが基準になっているものが多い。それだけ、私たちの先祖は人間関係の和ということを重んじてきたことに気づかされる。
さて、現代に翻って考えてみると、私たちの心の有りようはどうであろうか。多くの人々は、譲り合いの精神、謙譲の心を保っていると思う。だが、一部の人々の言動は、あまりにも自己中心的であると感じることが多い昨今ではある。
特に、いじめによる自殺に追い込まれた子どもたちの声なき声、自殺に至るまでの過程を報道などで知るにつけ、これが人間のすることだろうかと耳をふさぎたくなるような思いに駆られる。誠にグロテスクで残忍な、いじめというには、どこか違和感がある出来事の数々は、日々同年代の生徒たちと向き合っている立場として、深く心に留めておかざるを得ない。幸いにして、今のところは、それほどのひどい例には遭遇していないのではあるが。
グローバル化した社会において、日本古来の伝統的な精神を保ち続けるのは困難なことかもしれないが、せめて私たちの周りにおいては、温かい心の交流が実現できることを願ってやまない。要は、相手を思いやる心、察する心を鍛えればよいのである。
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